愛知教育大学付属図書館

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愛知教育大学附属図書館蔵書印覚書(上)

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はじめに

 昨年(1999)本学は、戦後の学制改革に伴い愛知学芸大学として発足して以来、創立50周年を迎えた。記念行事の一環として『愛知教育大学50周年記念誌REVIEW and RENEW』(1999/11)とい う小冊子が刊行され、編集の末席に連なった稿者は、本学の蔵書印を調査した。
 本学は、その前身として師範学校・実業学校(青年師範)、学芸大学・教育大学の各時代があり、地域的にも名古屋・春日井、豊川・岡崎、安城等に位置した各学校・ 分校を経て、ここ刈谷の地に至っている。しかし、そこに在籍した人々の多くは今は亡く、建物もその一隅を写真等にとどめるのみ。本学のたどった歴史を年譜上の出来事としてではなく、 今に直接伝え、物語るのは、蔵書とそれに捺されている蔵書印の数々であるという思いを強くした。
 また、本学には尾張藩の藩校明倫堂旧蔵本を中心とする貴重な蔵書が伝えられている。そのなかには、明倫堂旧蔵本と一口には片付けられない様々な機関の蔵書印を見いだすことができる。 近代に入っても上記のような、本学に直接ゆかりのある学校のみならず、県内の諸種学校の蔵書印の捺された図書に出会うことができる。さらに、本学の歴史に連なる学校にしても、 寮や校友会や読書会・研究会、はたまた「愛知第二師範学校報国団印」なる印にいたるまで、いまでは思い及ばないような場を舞台に蔵書印が活躍している。蔵書印の時代がかつてはたしかに在った。 書庫の中を、書架の間を経巡ってそうした蔵書印と向かい合うとき、それらの図書に関わった幾多の人々の声が静かに立ちのぼってくる。   幸いにしていまこうした機会を与えられた。調べたことを全部しゃべろうと思ってはいけない、と学生諸氏に注意することがあるのだが、その戒めを破る記述に終始することを あらかじめおことわりしておく。
 小稿は本学図書館にお勤めであった伊藤芳生氏の蔵書印調査に多くを負っている。『愛知学芸大学附属図書館名古屋分館漢籍目録』(1965。以下『漢籍目録』)・ 『愛知教育大学附属図書館所蔵国書・和装本目録 予稿』(1989/3末現在。この公刊は今後の重要課題)の二つの蔵書目録に書き込まれた伊藤氏の記述がなければ、 短時日に小稿を成すことはかなわなかった。愛知県第一師範学校郷土資料調査部『愛知県第一師範学校所蔵古本目録』(愛知教育539 1932/11。以下『一師目録』) もまことに得難い先達であった。さらに、旭丘高校、明和高校では貴重な蔵書を拝見させていただき、種々ご高配賜った。蓬左文庫、鶴舞図書館、愛知県公文書館、 本学附属図書館職員の方々には、関連資料・論文等種々のお教えをいただいた。あつく御礼申し上げる。

1、本学蔵書の履歴

 1)藩政時代の蔵書印
 (1)尾張藩関係
  (イ)明倫堂関係

『国立国会図書館蔵書印譜』32頁に「明倫堂旧蔵本は、愛知教育大学・蓬左文庫に所蔵されているが、当館も少なからず蔵している。」とあり、 印影「名古屋/藩学/校之印」「明倫堂図書」が掲示されている。また、蓬左文庫の館報「蓬左」7号(1981/10)に、「明倫堂図書」印が「実際に用いられた例は意外と少ない」、 同10号(1982/4)に、「名古屋藩学校之印」をもつ書籍は「まだ本文庫では発見されていない」とある。
 本学には両方とも存在し、『一師目録』は、「明倫堂図書(1)印を「我が校所蔵明倫堂本の主要部であり而も比較的珍本の少いのは、この部に属する図書であつてこの印章あるものは殆ど 日常必須の教科書及び参考書類である。」と解説している。類似の印に「明倫堂/書庫記(2)があり、『一師目録』も指摘するように「明倫堂図書」は漢籍中心、「明倫堂/書庫記」は和書が中心である。
 教科書類や明治2年に明倫堂を「学校」と改称した後(注1)の図書は、蓬左文庫には残されなかったものと思われる。国会図書館の収蔵については、 宮坂広作『近代日本社会教育政策史』(国土社1966)51Pに「文部省は、書籍館(今井注:明治5年9月開館、同8年4月東京書籍館と改称。現在の国会図書館支部上野図書館)設置に 際して各府県につぎのような命令を発して、旧藩から地方官が収受した書籍の目録を提出させ、そのうちから珍書を選んで書籍館に備えつけようとした」とある。 また、朝倉治彦「上野図書館所蔵藩校旧蔵本略記」(文献2、1959/12)参照。なお、国会図書館の明倫堂関係図書については、まだ実見していない。
 「名古屋/藩学/校之印」は、国会図書館印譜の掲示する大型印(甲 印(3)と仮称)の他に、双行の「名古屋藩/学校之印」があり、後者は方形2種類(乙大 印(4)乙小印 (5))および長方形1種( 丙印(6))があり、乙・丙印は本学「教科書」コレクションの中に見いだせる。関連して、 『愛知県教育史第二巻』(1974)61Pに「(名古屋洋学校・名古屋藩学校は)当時〈名古屋学校〉とも呼ばれていたようである。廃藩置県後は名古屋県に引き継がれ、 中学校の開設とともにその一文科と見なされた」とあり、現に「名古屋/ 学校(7)(『皇朝史略』文昌堂蔵版、等に捺印)、 「名古屋県/学校印(8) (『西洋各国盛衰強弱一覧表』慶応3年谷山楼蔵梓、等)のあることを付記しておく。
 また、『日本教育史資料一』(1890、文部省蔵版)139Pに「過半ハ本県師範学校中学校等ヘ廃藩ノ際引渡ニナリタリ」とあり、『一師目録』にも「我が校には、古くからその頃の洋書は中学へ、 漢書は師範へ分属せしめられたといふ言ひ伝へがある。(中略)今の一中に殆ど和漢書のみであつた明倫堂本の一部もないのはその反証であらう。」とあるように、愛知県中学校(注2)にも 藩校関係図書の一部が移された。過日、愛知県中学校の後身である旭丘高校の図書館に照会し、『愛知一中旧蔵書解題目録』(1997。以下『一中目録』)という目録も完備されていることを教えられ、 蔵書を実際に拝見させていただいた。「名古屋藩/学校之印」(乙大・小印。丙印は見当たらない)の捺された図書は、洋書に12点 (CHAMBERS'S NARRATIVE SERIES OF STANDARD READING BOOKS Book Ⅰ~Ⅴ各1点と数える)。ほとんどが洋装本で和装本の洋書は「英学入門」 (目録122P)のみ。和書・漢籍には存在しない。したがって、明倫堂の和漢書は本学・蓬左文庫・国会図書館に、名古屋藩学校の和漢書は本学・国会図書館に、 洋書は旭丘高校に、蔵されていることになる。ただし、『理学初歩』(NATURAR PHILOSOPHY FOR CHILDREN)のように、乙印をもつ洋書でありながら、 本学に蔵されている図書も数点ある。また、『地学初歩』(CORNELL'S PRIMERY GEOGRAPHY FOR THE USE OF SCHOOLS)など「愛知県/中学校」印をもつ図書 (藩学校印は無い)も幾点かある。一方、旭丘高校蔵書の『羅馬史略』(目録64P)には「愛知師/範学校/図書印」がある。この間の事情は今となっては不明である。 いずれにせよ、本学には明倫堂・名古屋藩学校の蔵書の過半が伝えられているといえよう。
 なお、『一中目録』は、図書一点々々の蔵書印を全て記述してあり至便。名古屋藩洋学校(注3)以来の本県の英語教育史を、その蔵書印を手がかりにたどることができる。
 また、明倫堂の名を受け継ぐ、私立明倫中学校(1899(明32)年設立)蔵書について付言しておく。同中学校は1919(大8)年、愛知県に移管「愛知県立明倫中学校」と 改称、学制改革、県第一高等女学校との統合を経て、現在の明和高校に至っている。同校には私立明倫中学校時代の蔵書に「葵文庫」(右起筆横書の印文を葵の一葉が包む。 紫色。同校「館報明和」52号〈1990/2/28〉に印影掲示)があり、近代の洋装本を主とする。
また、「明倫/中学校/図書印」を捺された図書には、他に「徳川氏/蔵書記」「徳川氏/図書記」(『蓬左文庫図録』1983等に印影掲示。明治以降に用いられた印記)、 「金湯/文庫」(設立時の校主徳川義礼の印。蓬左11号1982/6に紹介あり)を見ることができる。別に、主として近世後期以降の漢籍および和書を中心とする和装本も171部蔵されている。

(ロ)明倫堂以外
 注2に言及した、昭和八年尾張徳川黎明会への保管依託図書目録の備考欄に蔵書印が略記されている。これを整理すると以下のようになる。

「明倫堂図書」62点、「明倫堂書庫記」25点(内1点「神祇局」をも捺印)、「名古屋藩学校」12点、「名古屋学校」2点、「名古屋県学校」1点、「張藩図書」1点、 「張府内庫図書」2点、「尾張寺社官府蔵書」4点、「尾張神祇局」1点(他に「明倫堂書庫記」を押す図書1点)、「尾張軍務局」5点、空白2点、以上計117点。
 また、上記印に併せて、以下の印も捺されている。( )内は併存する印。
「学習館蔵書」4点(張藩図書1、名古屋藩学校2、名古屋県学校・日新館1)、「日新館」1点(名古屋県学校・学習館蔵書1)、「弘道館図書印」2点(明倫堂書庫記2)。
 こうして一括されていることを考慮すれば、明倫堂関係以外の尾張藩(名古屋藩)諸機関の蔵書印を持つ図書も同じ時に愛知県師範学校に分属されたものと思われる。 これらの蔵書が明倫堂関係図書に混在する理由は不明であるが、慶応3年(1867)「3月、書物奉行を廃し、蔵書を主として藩校明倫堂に移す」 (『名古屋市蓬左文庫善本解題図録第一集』付載の略年表)ことなども一因をなしていようか。
 明倫堂関係以外の蔵書印につき付記しておく。( )内は主として『蓬左文庫図録』による。○印は同書に印影掲出。 ○「尾陽/文庫 (10)(藩祖義直蔵書の一部と二世光友時代の蔵書に捺されている。本学図書では『七書直解』寛永20年1月、 京都澤田庄左衛門刊本に見られる)、○「張府内/庫図書 (11)(注4)・「尾府内/ 庫図書(12)(「内庫」は城内二の丸の奥文庫。他に「張府/内庫/図書」・○「尾府/内庫/図書」とする方形の印もあるが、 現在の所本学ではこの3行書の印を確認していない)、○「張藩図書 (13)、○「御日記所 (14)、○「尾藩寺社 /官府蔵書(15)(尾張藩寺社奉行所)、○「尾張府/尹庁印」(町奉行所。 同寸だが黒印(16)朱印(17) あり)。
 以下は明治以降のもの。○「尾張/軍務/ 局印(19)・「名古屋 /藩軍務/局印信(20)・ 「名古屋/藩庁軍/事局印 (21)。この三つの関係は未調査。 「尾張/神祇/局印(22) 。「名古屋藩/化学局記(23) (風雲堂蔵版青藜閣発兌『遠西医方名物考』494.1/W2。「愛知県/中学校」印(45*44)が重ね捺しされている)。
 前述「弘道館/図書印(9) (『嚶鳴館遺草』天保6年刊A123/3/1-6W等に捺印)は在江戸の藩学の蔵書印。 「日新館/図書之印(33) (前出『西洋各国盛衰強弱一覧表』等)は碧海郡大浜に設けられていた菊間藩の郷学(郷校)の印。ちなみに、愛知県内には静岡県、菊間県(もと沼津藩。明治1年に千葉県に転封)、 伊那県などの管轄地もあった(『愛知県教育史二』22P)。それら管轄地が愛知県に編入されるに伴い、明倫堂関係の蔵書と一括されたのであろう。
 「学習館蔵書」についても、上記のように尾張(名古屋)藩関係の蔵書印とともに捺されているところから本県関係の蔵書印と思われるが、不明。また、同じ図書(『本朝官職備考』元禄8 年梶川儀兵衛等刊)に併せ捺されていることのある「翠実園/蔵書記」も不明。
 他に、藩以外であるが、「尾州名古屋/護国院蔵書(24)(護国院は名古屋市北区楠町味鋺にある真言宗智山派の寺)がある。また、上記「尾張府尹庁印」の捺された図書に見られる 「河邨/家蔵(25)は、 天明7年に町奉行となった河村秀穎の蔵書印か。

(ハ)「司農府/図書紀 (18)
 尾張藩関係の蔵書印で、これまであまり注意されてこなかったと思われるのが、標記の印(48*29黒印)である。『故唐律疏議』(近世後期写本。322/W2)、『大明律例訳義』 (高波忠敦撰、享保5年成。近世後期写本。392.22/W9)、『救荒便覧』(遠藤通著、渡辺崋山自筆跋文。貴重書368.1/W3)(注5)等に捺され、『一師目録』によれば 「本市内鍋屋町鈴木半右氏所蔵の尾張地名考及び集古十種」にも見られるとのこと。以下、たどたどしい判明への道程を綴る。
 最初の手がかりは『一師目録』の「細野要斎自筆の記事にも水野士惇が遂に司農府に入り云々とある」という記述であった。本年9月11日に東海地方を襲った記録的な集中豪雨により、 名古屋市西区で新川の堤防が約百㍍にわたり決壊し、大きな被害をもたらした。蓬左文庫で教えていただいた資料のいくつかによれば、水野千之右衛門(士惇は字)は、 天明4年(1784)に庄内川の治水のために新川を開削した際の普請奉行(『名古屋市史 人物編一』)。文政2年には「水野士惇君治水碑」が春日井郡比良堤上に建てられている (『尾藩世記 九』)。こうした文脈でその名を挙げては水野にとって迷惑というものであろうが、調査はその月末のことゆえ、しばし、その記事に見入った。蓬左文庫では愛知県公文書館に 赴くことをも勧められた。公文書館では、愛知県立図書館蔵『尾張徇行記』の表紙に「司農府」印があることを教えられ、『名古屋叢書続編四』をお示しいただいた。その図版頁に印影を みることができるのだが、現在は全8冊とも、問題の印の上に図書ラベル貼付。本学図書の「司農府」印影はその意味でも貴重である。
 『尾張徇行記』は、樋口好古が寛政4年(1792)から文政5年(1822)にかけて完成した、多岐にわたる地誌。樋口は先の治水碑文および墓銘(文政6年2月。水野は前年2月に永眠。 『愛知県金石文集 上』)の起草者でもある。その『徇行記』序に「国初以大司農、称 シテ 国奉行。 (中略)其為職也、郡県山川、農政匠作、及大理事之律令、 総、 国事皆管轄。(中略)我藩准 東朝、寛政六年甲寅六月、 以国奉行勘定奉行。 九年丁巳閏七月、駢其両庁、 并セテ一庁 。(中略)是所ンジ会府 ニスル上2 農政之本乎。可哉。」とあり、「司農府」は国奉行役所(御国方役所)をさすと知れる。 ちなみに前記水野も後に国奉行に任じている。『故唐律疏議』『大明律例訳義』といった図書に当該印が見られる理由も理解できる。なお、寛政6年(1794)以降 、尾張藩は東朝(幕府)に倣って勘定奉行の機構を拡充し、国奉行の職務を併合するに至るが、樋口は農政を財務会計の下に置く措置に不満をもらしており、 現在の省庁再編問題等に連想が及ぶ。ともあれ、ここに寺社奉行、国奉行、町奉行の三奉行所の蔵書印が判明することとなった。

(2)尾張藩以外
 量的には尾張藩関係図書よりはるかに少ないが、田原藩関係の蔵書印( 「成章/館印 (26)、「成章館/ 蔵書印(27)、「田原 文庫(28)、「田原学 /校蔵本(29) )も散見し、塾頭萱生玄順の藩校への寄贈本(『伊勢物語古意』913.32/W1。上記4種印すべて捺印)もあり、注目される。 この他、岡崎藩(「岡崎藩(30)、「岡崎/ 文庫(31)。これらの使用時期等詳細は未調査。前者収載図書には 「額田県/小学校 (32)印もあり)・挙母藩・菊間藩(前述)のものも少部数ながら存在する。
 挙母藩については『豊田市立図書館和装本目録』(1992)の巻末に主要蔵書印が原寸で掲示されている。本学図書にはその内の、 「崇化館」(崇) (34)・「崇化館/ 蔵書印」(崇蔵)(35)・「 挙母/文庫」(挙)(36)・ 「衣文庫」(衣) (37)などの蔵書印が見られる。廃藩置県後の蔵書印であるが、併せて触れておけば、 「挙母/郷校」(郷) (38)・「第二番大学区/ 第九番中学区内/第七十四番/小学挙母学校」(七)(101)・ 「愛知県西/加茂郡挙母/第一尋常小/学校之印」(尋) (103)などもあり、本学図書には『豊田市目録』に言及されていない 「梅壺学/校文庫」(梅) (102)・「愛知県西/ 加茂郡挙母/第四尋常小/学校之印」(尋四)(104)も見いだせ、藩校蔵書のたどった経路の一端が伺える。ただし、 挙母藩関係以外の蔵書印を持つ図書はすべて愛知学芸大学附属図書館名古屋分館に伝来したものであるのに対し、挙母藩関係の蔵書印は岡崎本館伝来の教科書類にも捺されている。
 名古屋:『予州大洲好人録』(寛政12年大阪播磨屋利兵衛等刊。154.7/W2。「崇」「崇蔵」「衣」)・『古事記伝』(天保15年永楽屋東四郎刊。210.1/W77。「郷」「七」)。
 岡崎:『小学作文集』(明治20年金港堂。A31-16/1887/M65。「衣」「挙」)・『明治孝節録』(明治10年宮内省蔵版。A10-22/1877/K75。「梅」「尋」「尋四」)等。
 蔵書印と図書の刊年との関係は一律には扱えないが、岡崎伝来図書のあり方からすれば、「衣」「挙」印も廃藩置県後のものと見るべきか。
 なお、挙母藩関係印は、鶴舞図書館蔵の伊藤仁斎・東涯・東所三代の著作写本(『古学先生別集』、『盍簪余録』・『孟子古義標註』・『論語古義標註』・『論語古義講録』、 『詩解』・『古学十論』)にもあることを蓬左文庫で教えていただいた。東所(1730-1804)は藩校崇化館創設に当たり、賓師として京都より招かれた学者。これらには、「崇」 「崇蔵」「衣」印の他、昭和12年4月下間氏寄贈印、「財団法人名古/屋公衆図/書館蔵書」印等がある。また、同一装訂ながら挙母藩関係とは別の「学聚文庫」印を持つ『盍簪録』 もある。いずれも『国書総目録』未載。


  1. 同4年7月の廃藩置県によって廃止。同3年6月に開設の英・仏語学科(洋学校)は、名古屋県に引き継がれた。
  2. 明治4年7月名古屋県。11月犬山県、名古屋県に合併。同5年4月名古屋県、愛知県と改称。11月額田県、愛知県に合併。現在に至る。明治4年の廃藩置県の 際は名古屋県中学校であり、前記「名古屋/学校」印がその蔵書印かと目されるが、明倫堂関係図書が師範学校・中学校に分属された時期についてはなお検討を要する。 旭丘高校蔵書には、「愛知県/成美学校」(明治6年洋学校を改称、同8年廃止)、「愛知外国/語学校之/蔵書」、「愛知英/語学校/図書印」・「愛知英/語学校/ 図書室印(朱・陰)」(同7年官立愛知外国語学校開校、まもなく愛知英語学校と改称)等の蔵書印をもつ図書がある。しかし、「名古屋藩学校之印」のある図書の多くは 「愛知県/中学校」(明治10年官立英語学校廃止、愛知県中学校として発足)、「愛知県尋/常中学校/図書印」(明治19年学校令発布、尋常中学となる)とともにあり、 廃藩置県と同時ではなく、愛知県中学校・愛知県師範学校(明治9年~明治19)時代のことと考えられる。本学図書に即していえば、明倫堂蔵書ではないが、尾張藩関係の蔵書印 (「張府内/庫図書」『職原抄』328.4/W8イ、「張藩図書」『大清律集解』名・未59等)とともに「愛知県/師範学校」印の捺されている蔵書があることも右の見解を裏付けよう。
     なお、本学図書館に「昭和八年十一月十一日依託/財団法人尾張徳川黎明会ニ保管依託図書目録/愛知県第一師範学校」という表紙の文書が保管されている。末尾2葉を転記する。 「昭和二十四年五月三十日/愛知第一師範学校長近藤/財団法人尾張徳川黎明会長殿/貴会図書館に保管依託中の別記図書今回愛知学芸大学に昇格/ に伴ひ保管調査を致し度く現在保管図書と引合せ確認の上御回/答願ひ度い/図書分館事務主任 (福田印)」。「受領証/一、明倫堂図書 二千九百拾五冊/図書分館事務主任 (福田印)/但し別紙目録の通り/右正に受領致しました/昭和二十五年四月十日/愛知学芸大学名古屋分校図書館/徳川美術館御中」。ちなみに、前引「名古屋市蓬左文庫略年表」 によれば、1933(昭8)年1月、東京に蓬左文庫が新築され、翌年文庫の蔵書を名古屋より東京へ移した。1950(昭25)年に名古屋市が黎明会と蓬左文庫購入契約を結び、 9月に蔵書は大曽根駅に到着し、東区徳川町の現書庫に収納、とある。これに関わり、本学蔵書(の一部)も、昭和8年から昭和24年までの徳川黎明会の保管依託を経て、 昭和25年に正式に受領のはこびとなったと考えられる。ただし、『一師目録』と照合するに、「明倫堂図書」印のある図書が『一師目録』には235部挙げられているのに対し、 この依託目録には62部(「明倫堂書庫記」印と備考欄にあるも、「明倫堂図書」の誤りかと目される2部を加えても64部)しか収載されていないなど、この保管依託の全容・ 経緯は不明な点が多い。いずれにせよ、『漢籍目録 愛知学芸大学附属図書館名古屋分館』の序に「尾張藩の藩校明倫堂からその蔵書を愛知学芸大学名古屋分校の前身たる 愛知第一師範学校に寄贈された」とあるのは、正式受領(再受領)をさしてのことである。
  3. 堀川柳人『名古屋藩学校と愛知英語学校』(1935)に「名古屋藩学校は、明治維新後二ヶ年許り名古屋に存在して居た英仏語学の教授所であつた。(中略)郷土人から好奇な 眼で洋学校と呼ばれて居た」とあり、「洋学校」は名古屋藩学校の(英仏語学科の)通称。この指摘は、愛知県中学校旧蔵書の蔵書印が「名古屋藩学校」であることからも首肯される。 ちなみに「学校」には、明倫堂以来の皇学(国学)・漢学も続いていた。
     なお、「尾張洋/学館印」なる蔵書印があり、「蓬左」7号に「尾張洋学館は、天保年間(1830~44)、藩士上田帯刀(仲敏)が、当時の蘭学界の第一人者伊藤圭介らと協力して、 城内三の丸の自邸内(現営林署)に開いた蘭学塾で…」と紹介されている。洋学館とその後継の「洋学所」の推移については土井康弘「尾張「洋学所」の成立と展開―伊藤圭介関係文書 を中心として―」(日蘭学会会誌23-1 1998/10)にくわしい。洋学館印をもつ蔵書は蓬左文庫に蔵されているが、本学・旭丘高校には無い。
  4. 本学貴重書の一つ、慶長5年刊伏見版『貞観政要』十巻十冊に捺されているのもこの「張府内/庫図書」印である。伏見版は徳川家康の行わせた古活字版で、川瀬一馬『 古活字版の研究』(1937)214Pに、「伏見版貞観政要の伝本の管見に入るもの九本」のうち「(4)愛知県師範学校蔵本 尾州家旧蔵」と紹介がある。
  5. 『救荒便覧』は「膨大な情報をコンパクトな折本(今井注:天保四年刊本の装訂)にまとめた飢饉対策のハンドブックで、尚歯会を主宰した遠藤通(紀州藩の儒者)が著した。 尚歯会は天保の飢饉の対策を考えるための会合として始まり、渡辺崋山や高野長英ら、江戸在住の知識人が多く参加していた。」(名古屋市博物館企画展図録『飢饉 食糧危機を のりこえる』1999/3/6)。天保4年の刊行後、同7年冬から翌年正月にかけて後集、続集が成立。本学蔵書は前集、後集上・下、続集の四冊からなる写本。伊那森太郎氏が 「田原本『救荒便覧』」と題する小文(愛知教育 昭7・9)に「後集下の巻末にまぎれなき渡辺崋山の筆にて左の文が記されている。…」と紹介している。 しかし、『一師目録』は、本書に田原藩関係の印章の見えず、「この書が直に田原文庫の旧蔵であつたと速断することは出来ない」とする。小稿も、この疑義に与し、 さらに崋山跋文自筆説自体を密かに疑う。自筆の場合、「司農府」に伝えられた経緯が不明瞭であるからだ。専門家の検討に俟ちたい。

〔図書館だより 第18巻 第2号 (通巻59号) 平成12年12月掲載を改訂〕

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